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愛車遍歴5 [車]

さてさて愛車遍歴も5台目となりました。
前回のジムニーSJ30FKでフルオープンに目覚めたということで、ご存知の方はお気づきと思います。
はい、その通りです。
なんて影響されやすいんでしょうワタシ…。


5台目の愛車となりますのはホンダS800。通称エスハチ、略称エスです。
この車に関しては以前もこのblogに何度か登場しています。
前記事と行ったり来たりしてご覧ください。

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関連記事:
 2005/10/10 『ワクワクするクルマが好き

先輩が青空駐車場でブルーシートにくるんでたエスハチを譲り受けたワタシ。
エンジンはとりあえず回って走れはするものの、ボディもフロアも錆がひどくて穴だらけ。これはもう修理というよりレストアというレベルです。
雑誌をいろいろ見て、ある専門工場にお願いすることにしました。お金もないのでとりあえずボディだけ載せ替えることに。

当時はまだ本田宗一郎氏がご存命で、ホンダSF(ホンダ直系のサービス工場)もあり、エスの新品パーツも手に入った頃です。
当然ながらワタシも新品のボディパネルを使いました。
エスは駆動系フレームの上にボディが乗っかっている構造です。実物大のプラモデルみたいです。
レストア時の写真があったのですが、ちょうどアルバムが見つからなくて…(汗)。見つかったら後で追加したいと思います。
新品のボディとは言っても、金型が古くなっていてプレスが甘く、かなり修正しないと取り付かないんです。当時ですでに30年前の車です。新品のボディパネルが手に入るだけで驚異的ですよね。
他メーカーの旧車を持ってる人は、ボディどころか細かいパーツですら手に入りにくく、かなり苦労していました。どうしても手に入らない部品は個人的に特注で作ったり。

「ホンダ車はいいよね〜」

他メーカーの旧車乗りからは、よく羨ましがられてました。
もともとエスは海外にもファンクラブが多く、そういうところが部品の必要数をまとめて、ホンダに注文していたんです。だいたい多めに発注するので、余った新品が世界中に回っていて、ホンダSFに在庫がなくても、専門工場をツテにクラブに問い合わせると手に入る部品もありました。
今のようにインターネットオークションで簡単に、という時代ではありませんでしたけど。
なんだかんだで乗れるようになるまで一年くらいかかりましたね。

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働いていたとはいえまだ22歳の頃で給料もたかが知れています。
忙しくて残業代が多かったのがせめてもの救いでしたが、それでも追い付かず。切りつめられるところは切りつめました。
会社の寮でしたので平日の朝食と夕食は出ます。食費を切りつめるとしたら昼食しかありません。
それでまずは一年間お昼を抜きました。さらに休日はほとんど一日一食。だいたいが、ほか弁の、のり弁280円とか。そんな慎ましい生活を続け、何とか費用を捻出しました。
あ~ワタシも若かったな~。

車が帰ってくるとさすがに寮の青空駐車場というわけにもいかず、近くの貸しガレージを借りました。
自分の住む寮費が月々2万円の時、ガレージ代は3万円でした。たぶん。
寮を出てガレージに住もうかと本気で思いましたね。

ボディが直って綺麗になって喜んだのもつかの間。しばらくすると、ある時、燃料漏れに気づきました。
キャブレターのフロートが沈んでガソリンがオーバーフローしていたのです。
さすがにガソリンが漏れてるのをそのままにはできません。
キャブ修理だけとも考えたのですが、他にも問題があるかもしれません。
なので、今度はエンジンのオーバーホールに出すことにしました。
またまた雑誌を調べて工場を選びました。

オーバーホールが終わるまで半年くらいかかりましたかね。
ついでにバルブシールに無鉛対策をしてもらったので、無鉛ガソリン仕様となりました。
当時はもう有鉛ハイオクがなかなか手に入りにくくなっていて、扱うガソリンスタンドが少なくなっていました。少し遠出したりした時には、「有鉛あります」の看板が出ているガソリンスタンドを通り過ぎたら、必ず覚えておき、ガソリンがやばそうになったらいつでも戻れるように、常に気をつけていました。
無鉛仕様になったおかげで、有鉛ガソリンを探さなくて済むようになり、ドライブもかなり気が楽になりました。が、最後まで燃料計があやしくて、トランクにはポリタンクを常備したりもしていました。

オーバーホールの終わったエンジンは最高でした。圧縮が落ちてスカスカだったのが、本来の性能を発揮するようになりました。
何より音が違います。初期型のエスは触媒なしのマフラーですから元々排気音はかなり賑やかですが、それに加えて、吸気音やら、カムの音やら、すべてが気密が上がったような緻密な音に変わっていました。バリバリガラガラいってたのが、クーンとかキューンとかいう感じに。
冗談でも比喩でもなく、本当に気をつけてないと簡単にタコメーターが1万回転を越えてしまいます。
そしてそれ以上に驚いたのが、アクセルを抜いた時の回転落ちの早さ。シフト操作とクラッチ操作を急がないとぎくしゃくするほどです。
もう夢中になりました。暇さえあればすぐガレージから引っ張り出していつも乗ってました。と言っても、とってもうるさい車なので、さすがに夜走るのは自粛してましたけど。

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休日など、信号待ちでタクシーの運転手さんにはよく話しかけられました。お別れする時にはほとんどの方が「ずっと大切に乗っていってね」とおっしゃいます。
当時のタクシードライバーって本当にプロフェッショナルの人が多くて、全てのドライバーのお手本のような感じでした。そんな方々から好意的に接していただいたことは今でも良い思い出です。

でも逆に、悪意や敵意を受けることもありました。
前にも記事にしましたが、トラックの運転手さんからはあまり良い扱いをされませんでしたね。
基本的にオープンで走るワタシでしたから、すれ違いざまや信号待ちなどに、煙草の吸殻や空き缶などをよく投げ入れられました。あと、排気ブレーキね。ばふぉばふぉっ!ってよくやられました。
お金持ちがチャラチャラして遊んでいるように見えたんでしょうね。こっちは昼飯抜いたりまでして、維持するのに大変な努力をしてるのにね。

関連記事:
 2005/03/05 『職業ドライバーからの贈り物

この頃は初年度登録から10年を超える車は毎年車検だったんですよ。
それはそれで結構金銭的には負担でしたが、それがあったおかげで、エスを常に動かしてエンジンの調子が確認できていたような気がします。
そんなワタシでしたから、エスを手放すことになるなど、全く想像していませんでした。

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そしてそれは突然やってきました。
ある時、実家から連絡がきました。親父が雪掘りで屋根から落ち、怪我をして入院したということでした。あー親父ももう歳なんだな…と思いました。
ワタシはそこで、人生をかけた決断を迫られました。
すでに姉は結婚して家を出ており、家を継ぐ者はワタシだけです。

「それがわかってて何で東京に出てきたの?」

先輩からはズバリ言われました。
その時は笑ってごまかしたけど、今考えると要は田舎暮らしが嫌だったんですね。子供の時から早く都会に出たかった。ずっとそう思っていた。そしてついにあこがれの東京暮らしが始まって、また田舎に帰ることなんか考えたくなかった。
でも心の中ではわかっていたんです。いつかはこの時が来ることを。

関連記事:
 『拝啓 屋根の上から

当時まだ安かった千葉ニュータウンあたりに家を買うからこっちに来ない?と言ってみたこともありましたが、頑固な親父は絶対にウンとは言いませんでした。それも予想通りの反応です。
そうなるともう選択肢は一つしかありません。
…実家に帰ることにしました。

本当は他にもいろいろな要因がありましたがそこは省略します。
が、父親の入院がきっかけとなったのは間違いありません。きっかけとなった、と言うより、きっかけとした、が正しいのかな。それがなければ、ずっとモヤモヤしたまま、ズルズルと過ごしていたのかもしれません。


さてそうなると、エスをどうするか、ってことになります。
田舎に帰ると生活に車が必要。もう一台車を買うのか?でもそんな金銭的余裕はありません。
エスは冬場乗れないし…、と自分を言いくるめて、泣く泣く売りに出しました。
程度は良かったのでそこそこの金額がつきました。つぎ込んだほどは戻っては来ませんでしたが、それを元手に次の車を購入し、長い東京生活にピリオドを打ったのでした。

もう少し後ならバブルの時代に入って、もっと高く、下手すりゃ倍近い金額で売れたのにな。あとのまつりです。


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