SSブログ
思ひ出ぽろぽろ ブログトップ
前の10件 | -

戦闘機が戦車を連れてきた話 [思ひ出ぽろぽろ]

前回、プラモデルのコンクールで賞をもらった記事を書きました。

関連記事:
 2022/06/11 『戦闘機がF1を連れてきた話

実は、もう一つ賞をもらったことがありまして。
今度は学校の近くのおもちゃ屋さんではなく、電車で1時間ほど離れた、県で2番目に大きな市。当時のワタシ、田舎の高校生にしてみれば超絶大都会!にあるおもちゃ屋さん(今も現存)でのお話です。

このおもちゃ屋さんは県内でも有名なお店で、結構マニアの方も出入りしているようなところでした。なので品ぞろえも豊富で、海外メーカーのモデルなども置いていたんですね。たまにはそんな珍しいモデルも作ってみたいと思い、物色しに行ったわけです。

その店でたまたま、ある張り紙を見つけました。それは県主催のプラモデルコンテスト開催のお知らせでした。ちょうど例の日模賞をいただいて鼻高々だったワタシ。その場で参加を決めました。
ただ、なんせ電車で1時間もかかる片田舎です。前回のように、あまり大型のモデルでは運ぶのに無理があるので、ある程度持ち運びに支障のない大きさのものにしようと思いました。

su-27.jpg
Revell 1/27 Su-27 SM Flanker
(画像はお借りしました)


レベル社はドイツのメーカーですが、ハセガワが輸入代理店となっています。ワタシ的には、たぶん初めての海外キットでした。

Su-27と言えば、最近ではウクライナ空軍のデジタル迷彩が有名ですが、当時はそんな迷彩はありませんので、ロシア空軍の通常の迷彩塗装でした。サイズがサイズなので、単純にマスキングして普通に塗り分けても良かったのですけど、前々からやってみたかった、ぼかし塗装にチャレンジしました。
とは言え、当時はエアブラシなんてもんは超高級品。一介の田舎高校生が買えるような代物ではありません。それでどうしたのかというと…。

少しばかり浮かせたマスキングの上から、塗料をつけた歯ブラシをしごいて、なんちゃってぼかし迷彩にしたんです。ほとんどが周りに飛び散って、大変なことになりました。しかしこれが思いのほか良い出来で、出展する時におもちゃ屋さんに見せたら、エアブラシじゃないの?って、ビックリしていました。
結構イイ線行くかも?なんて思っていましたが、結果はこのとおり。

IMG_8289.JPG

IMG_8290.JPG

残念ながら「地区予選大会入賞」止まりと相成りました。まあ今となって考えると、所詮なんちゃってぼかし塗装です。それくらいがせいぜいだったのでしょうね。
それでも、この時も副賞が付きました。

issikihou.jpg
『タミヤ 1/35 日本陸軍一式砲戦車』
(画像はお借りしました)


上の画像は歩兵6体付きですが、当時のキットは車両のみだった気がします。それにしても、さすがは我らがタミヤ製。ディティールも細かく、エッジもシャープで、今思い出しても素晴らしいキットでした。ミリタリー好きなワタシは、さっそく徹夜して作ったものでした。

迷彩は筆塗りでしたけど、半世紀前の当時としてはまだまだ珍しかった、ウェザリングにチャレンジしてみました。オイルのにじみ、泥汚れ、サビなど、細かく表現して、これがまた素晴らしい出来(自画自賛)。たぶんこの一式砲戦車がワタシの最後の模型作品。それも、かなり満足のいく仕上がりだった作品でした。今度コンクールがあったらコレを出してみよう!なんて目論んでいましたが、じきに忘れて、それっきりになってしまいました。

これら作品群は、その15年後には、自宅の建て替えのどさくさで、たぶん捨ててしまったと思います。今思えば、もったいなかったなー。いやでも、もしかすると、家のどこかに眠っているかもしれませんが。
(探す気、まるでなしw)


nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

戦闘機がF1を連れてきた話 [思ひ出ぽろぽろ]

ある一定の年齢層の方に「思い出に残る革新的なF1は?」と聞いたら、おそらくトップに上がるのは、タイレルP34でしょう。たいれるえふわん、とか、たいれるろくりん、などとも呼ばれます。1999年まで存在していたこのイギリスのコンストラクターは、今ではだいたい皆さん「ティレル」と呼ぶのが普通なのですが、このP34についてはおそらくほとんどの方が「タイレル」と呼ぶのではないでしょうか。
「タイレル」はアメリカ読みです。この車体が日本GPを走った際に、ボディにひらがなで「たいれる」と振り仮名がふられていた(笑)こともあり、P34と言えばタイレル、タイレルと言えばP34と、この呼び名が浸透したいきさつがあります。

さて、世にも珍しいこの6輪のF1ですが、驚くことに、見た目の奇抜さだけではなく、実力もありました。他チームから失笑を受けながら実戦デビューしたものの、その年の第4戦あたりで、もうすでに優勝しています。模型の世界でもひっぱりだこで、昔から何度もモデル化されてきました。そして今年の夏にもタミヤから再々販されるとのこと。

IMG_8275.PNG
タミヤ 1/12 タイレル P34 シックスホイーラー(エッチングパーツ付き)
(画像はお借りしました)


いやー。懐かしー。
実は、このモデルには思い出があります。正確には、エッチングパーツなんて付いていない頃の、もっと古い初期のモデルになるのですが。

懐かしさに任せて、思い出を書いておきます。



ワタシがまだ、うら若き高校生だった頃です。通う学校の最寄駅近くにおもちゃ屋がありました(今も実在)。ちなみに、この話とは関係ありませんが、そのお店には同じ高校に通う娘さんがいましたね。クラスは違う(そもそも学科が違う)ので同級生と言って良いのか悪いのか。

放課後はいつも、帰りの電車の時間までお店に入り浸っては、プラモデルを物色していました。そんなに頻繁に買えもしないので、いつもは見ているだけで、ほとんど駅の待合室がわりと化していました。
ある時、お年玉か何かを貯めたお金で、ちょっと大きな買い物をしました。当時の金額でも3,000円とか、もっとしたかも。ハセガワの1/32 F-104J/Gスターファイターでした。なぜそれを買おうと思ったかは憶えていませんけど(汗)。

f104j.jpg
ハセガワ 1/32 F-104J/G スターファイター
(画像はお借りしました)



機体長が50cmほどになるので、かなりでかい。操縦席やノーズコーン内のレーダー、尾翼下のジェットエンジンなど、外板パーツをつけるとほとんど見えなくなるのが残念でした。

「作ったら持ってきてよ。店に飾りたいから」

親父さんから、そんなふうに言われました。

F-104Jって機体は、ほとんどシルバー1色なんですが、材質の違いや、熱や腐食を表現したくて、外板を部分的に塗り分けたりして、それなりに凝って作りました。

ワタシが作ったプラモデルを親父さんが見るのは初めて。思いのほか好印象だったようで喜んでもらえました。その後、何日かはお店のショーウィンドウに飾られてましたが、気が付いたらなくなってて、何だよー折角持ってきたのにーとか思っていると、ある時突然、親父さんに呼ばれました。

「あんまり出来が良かったから、コンテストに出展してみたんだよー」

なんだーそうだったのかー。なんて思っていたら、親父さんから衝撃的な言葉が。

「賞を貰ったんで、持って行ってよ」

ビックリです。
その時のトロフィーは今もあります。
裸で飾ってたので、リボンがすっかり褪せてます。

IMG_8268.jpg

IMG_8269.jpg

「日模賞」

思ったより大きめなトロフィーでした。日模(日本模型株式会社)という模型メーカーがあり、その名前を冠した賞でした。現在、模型部門は休止しているようですが、会社自体はまだ存在しているみたいですね。(てか、模型会社なのに模型部門を休止って…)
そして、その時の副賞として貰ったのが、件の「タミヤ 1/12 タイレルP34」だったのです。あーやっと話が戻ってきたー。

20220603235024.png
タミヤ 1/12 タイレル P34 シックスホイーラー(エッチングパーツ付き)
(画像はお借りしました)



ハセガワのモデルを出展して、日模の賞をもらい、副賞がタミヤの製品、という、何?このチグハグさ、節操のなさは?とは思いましたね(笑)。
1/32のF-104Jほどではありませんでしたが、1/12のタイレルP34でも全長30cmくらいになります。それなりに箱がでかくて、学校帰りに持って帰るのには一苦労しました。

思いがけず手に入れた、その副賞ですが、ワタシはどちらかと言うと、ミリタリーモデル派だったため、箱のまましばらく部屋に飾った後、友達が欲しいと言うのであげちゃいました。そのプラモデルを友達が作ったかどうか…。それは憶えていません。



え?そのお店の娘さん?
いやいやいやいや。何かあるわけないでしょう。
高校三年生になっても、せいぜいがこんなでしたからねw。

関連記事:
 2009/12/07 『唐変木1
 2009/12/08 『唐変木2
 2009/12/09 『唐変木3


プラモデルの思い出。
第二段、てか続き、ありそうな気配よ(笑)。


nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

はっきり [思ひ出ぽろぽろ]

ワタシがまだ性善説を信じていた、社会人になりたての時。

ワタシは高校を卒業した後、上京して会社員として働き始めました。都内には社員寮があり、そこから千葉の事業所まで電車通勤をしていました。通常の通勤客とは逆方向だったので、それほどひどいスシ詰めの満員電車ではなかったのが幸いでした。
その後、一年半ほどして、寮近くの本社勤務となりました。電車だと支線が違うので乗り換え駅含めて2駅でしたが、徒歩だと15分程度だったのでいつも歩いて通ってました。ホント近くて通勤には苦労しませんでした。

本社勤務となってしばらくした頃。ある日の午前中、外出する用事が出来ました。会社にはそれ用の自転車があったので、それを借りて出かけました。
用事自体はさくさくっと済みましたが、その帰り道に、あの事件は起きました。



「ちょっと」

警ら中の巡査に呼び止められました。

「こんな時間に何してる?」

いや、仕事なんですけど。
童顔で身長も低いワタシは、普段から高校生や、ヘタすると中学生に見られることもありました。あー、またか。仕事に出かけて補導されるワタシって何?

学生と間違えてるなーということが丸わかりの巡査に、仕事の用事で出かけてると説明し、免許証や社員証を見せます。普通ならそれで、いやスミマセン、という話になるのですが、その巡査は違いました。

「念のため、自転車を確認させてもらおうかな」
「いったん交番まで行こう」

食らいついたら離さないなー。今度は自転車泥棒扱いですか。
振り切って逃げたら撃たれるかな?

police_man_kenju_gun.png
(いらすとや)


何を言っても聞く耳を持たない巡査。
しかたないので、しぶしぶ交番までついていきました。
交番で防犯登録番号を確認する巡査の奥の机で、若い巡査がこちらをチラチラ見ていました。
その後、無事登録が確認され(当然です)無罪放免になるか、と思いきや。

「一応会社に確認しますよ」

はー?ってなもんですよ。
思わず奥の若い巡査と目が合いました。

(あーまたか…すみませんねー)

若い巡査の表情はそう語っていました。
いつものことなのかもしれません。

暴走する先輩巡査。
ワタシの勤めている会社(世界的にも結構名の通った会社ですw)に電話をかけます。

「石橋と言いますが設計開発センター(仮)をお願いします」
(忘れもしない…石橋巡査です。もしかしたら巡査長かも)

今なら個人名でかかってくる電話を、業務中に取り次ぐことなどしませんが、当時はまだまだ緩かったですね。オペレーターはワタシの部署に電話をつなぎました。

「一応警察とは言ってないからね」

暴走巡査石橋は、後ろめたさを隠すためか、わざとらしく、恩に着せるように、ワタシを見てニヤリとします。あー昔もいたなー、恩に着せるやーつー。警察ってみんなそうなんだなー、と思いました。

関連記事:
 2021/06/25 『うっすら

奥の若い巡査はもう知らんぷりです。

「私、○×派出所の石橋と申します」
(おい言ってんじゃん!)

「そちらにGEN11さんという人はお勤めでしょうか」
「そうですか、ハイ、ワカリマシタ」

電話を切った暴走巡査石橋は、まだ気が済まないけど、打つ手がなくなって仕方なく、といった風情でこう言いました。

「もういいよ」

はぁぁぁぁぁあーーーーー?!!
何だそれ?
ここまでしといて、スミマセンも、ワルカッタも、ないのかよ!
呆れてものが言えないとはこのことです。
結局会社に電話をかけたのは、嫌がらせのためでしかなかったんです。その日、誰でも何でもいいから捕まえて自分の権力を使いたかったのに、ワタシに何の罪もなかった。面白くないので最後に嫌がらせ。いや、お前より自分の方が偉いんだと、今で言うマウントを取りたかったんですね。

あーもうこんなヤツにつきあってるのもバカバカしい。
とっとと帰るわ。

交番を出る際、最後に奥の若い巡査をチラリと見たら、向こうも伏し目がちにこちらをチラリ。こんな先輩であんたも大変だね。警察は体育会系だから上下関係が厳しくて何も言えないのかもだけど、あんたも同罪だよ。思いっきりガン見してから出てきました。


会社に戻ると、案の定、大騒ぎです。

「おまえ、何やったの!」

ってな感じで、散々な一日でした。



以上、理不尽な思いをさせられた警察官三部作。いかがでしたでしょうか。
他にもたくさんあるけどキリがない。ワタシの素行が悪いのか、運が悪いだけなのか。テレビや映画で警官が活躍する作品を見るたび、いつも違和感を感じてしまいます。現実とのギャップを、いつかどこかで書いておかないとなーと思っていました。

思えば、救急や消防には助けられたことはたくさんあるけど、警察に助けられたことは一度もないんだよなー。それどころか、助けを求めたのに怒鳴りつけられた、ことすらあります。そもそも警察は市民を助ける仕事じゃないからね。やっぱり、市民の中から誰かを犯罪者として選び出すお仕事なんだなー、と思い知ることになった、いくつかの出来事でした。


そう言えば以前、テレビだったか何かで、どこかの幼稚園児がインタビューを受けていました。

アナ「将来は何になりたいの?」

園児「警察官!」

アナ「どうして?」

園児「悪いことしても捕まらないから!」


皆さんも、目を付けられないように、目立たないように、ひっそりと、細心の注意をはらって、暮らしていきましょうね。


タグ:警察官
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

うっすら [思ひ出ぽろぽろ]

ワタシがまだ正義というものを信じていた、高校生の時。

原付免許を取って、すぐの頃でした。
何か用事があったのか。それが何だったのか忘れましたが、用が済んで家に帰ろうと、市内へ向かう峠道を下っていました。
その道は一応国道で、普段からかなり通行量が多い割には片側一車線しかなく、追い越し禁止、さらに曲がりくねった急な下り坂で、原付には危険な道でした。今はバイパスができて通行止めになってしまった古い峠道です。

原付でトコトコと峠を下っていると、後ろから大きなダンプカーが近づいてきました。あっという間にダンプカーは追い付き、後ろにぴったりとくっついてきます。車線をはみ出しているのではないかと思わせるほどの大きな車体。
原付のすぐ後ろにダンプカーって、めっちゃ怖いです。はっきり言って、死の恐怖を感じました。

永遠に続くかと思うほど長く感じた時間でしたが、峠も終わりに近づいた頃。ダンプカーの後ろから白バイが飛び出してきて、ワタシを止めました。

job_police_shirobai_sunglass.png
(いらすとや)


ダンプカーが後ろに迫られて、思わずスピードが出ていたのでしょう。ワタシは早々に観念しました。ところが白バイ隊員から言われた言葉に、まだ高校生だったワタシは驚きました。

「キミの後ろを走っていたダンプはこの速度だったから、キミは制限速度オーバーね」

そうです。
ワタシの原付の速度を直接レーダーで測ったわけでも、並走して速度を確認したわけでもないのです。他のクルマの速度を測っておいて、それで違反だと言うのです。
確かに理屈も言い分もわかります。でも、そんな捕まえ方ってありなのか、って思いました。白バイ隊員の言いようが、何だか、すれ違いざまに肩が触ったと因縁をつけるチンピラのようで、まだ警察を正義の味方的に見ていた世間知らずの高校生のワタシにとっては、相当なショックでした。

真後ろから山のようなダンプカーにあおられて、恐怖を感じながら走っていたワタシ。峠の急な下りでしたし、確かに速度は出ていたかもしれませんでした。でも確たる証拠は何もなかったこともまた事実でした。今の時代なら、煽り運転などと言い訳や反論も可能だったかもしれませんが、少年だったワタシには警官に口答えすることなど、とても考えられませんでした。

ショックでした。本当にショックでした。その時、たぶんワタシは一言もしゃべれなかったのではないでしょうか。本当に言葉が出ないほどショックだったのです。
警察は正義の味方なんかじゃなかった。警官は、自分一人の判断だけで、犯罪者を作り上げることができる。こいつを捕まえようと狙われたら最後、どんな手を使っても、どんな理由を作ってでも犯罪者にできてしまうんだ。心の底から怖いと思いました。

あの時、あのシチュエーション、あのタイミング。当時のワタシでも、何か変だ、出来過ぎている、という気がしていました。おそらくあの白バイ隊員は、元々大型車に追われる原付を、最初から狙って待ち構えていたのです。急な下り坂で大型車が迫れば、原付は必ず速度超過する。最初からそう睨んで網を張っていた。そこに馬鹿なワタシが嵌った、というわけでした。

「学校には知らせないでおいてあげるから」

その白バイ隊員は、自分の後ろめたい気持ちを隠すためか、わざとらしく、恩に着せるように言いました。その後も、終始笑顔で、言葉遣いは丁寧に、優しく接していました。でもその笑顔の裏で、隙あらば犯罪者に仕立て上げようと、舌なめずりをしている、そんな気配を感じて、16歳のワタシは背筋が凍りそうなほどの怖さを感じていました。

家に帰って親に怒られ、学校に行って友達に笑われ。散々な思いをしたワタシでしたが、その時感じた恐ろしさ、理不尽さを誰かに話したことは一度もありません。落ち度はお前にある、と言われたらそれで終わりですし。
今回敢えて記事にしたのは、ただ単純に、自分に対して戒めのため、思い出話として書き残しておこうと思ったからです。(別にネタがなくなったわけではありません:笑)


あの時、なぜか中学生の時の駐在さんを思い出しました。

関連記事:
 2021/06/19 『もやもや

市民にとって良い警官が、市民にとって良い人とはかぎらない。逆に、良い人が良い警官ともかぎらない。
警察ってのは、市民の味方だと思っていたけど、その市民の中から誰かを犯罪者として選び出す組織なんだ。それが本当に犯罪者かどうかは別として。ということを思い知った出来事でした。

偏った穿ち過ぎの考え、と言う人もいるかもしれません。しかしそのわずか数年後には、その偏った考えを裏付ける、決定的な出来事がワタシを待っていたのです。


あー、続く…のか?
ま気が向けば、続くってことで。


タグ:警察官
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

もやもや [思ひ出ぽろぽろ]

ワタシがまだ世の中を疑うことも知らない、中学生の時。

あれはなんの時だったんだろう。お昼過ぎに下校することがありました。それも給食がなくて弁当持ちだったんですよね。弁当を持って登校したが半ドンだった、という状況かな。でも給食が出なかったということは、最初から半ドンの予定だったのかも。いや、だとしたら弁当を持って行った理由が…?
部活にも入ってなかったワタシ。うーん、なぜそんな状況になったのかよく憶えていません。
憶えているのはそこから先です。

中学校の入り口からすぐ近くに雑貨屋があり、店の前には自販機があります。その隣にはガソリンスタンド。さらに隣に駐在所があります。雑貨屋は今は閉店して長いですが、建物の並びは当時から今も変わりません。

半ドンで下校となった学校でしたが、ワタシと一人の友達だけは二人で路線バスを待っていました。なぜスクールバスで帰らなかったのか。あるいはスクールバスに乗り遅れたのか。そこもよく憶えていません。
路線バスの時間まで30分から1時間くらいあったのだと思います。自販機の前あたりで縁石に腰掛けてお弁当(おにぎりだった)を食べていました。他のみんなはお弁当を持って帰宅したはずで、それを考えると、午後から予定していた授業以外の何かが中止になって、急きょ下校になったのでしょうね。
初夏の頃だったか、それなりに日差しは暑かったような気がします。

そこへ、駐在所のお巡りさんが通りかかりました。
笑顔が優しい若いお兄さんといった感じでした。

「ここじゃ暑いからウチに来たら?」

とかいうようなことを言われ。
駐在所(の住居スペースのほう)に入れてもらいました。
お巡りさんが奥さんに

「道端で弁当食べてて、危ないし暑くて可哀想だから連れてきた」

と説明してくれました。
エアコンがついてて涼しかったのと、奥さんが出してくれたお茶がメッチャ熱かったのは、鮮明に憶えています。その後そこでどんな話をしたのか、これまた細かいことは全然憶えていません。
取りあえず、お弁当を食べ終わり、バスの時間も近くなったので、おいとますることにしました。

玄関を出る時に

「(お世話になって)すみませんでした」

と挨拶して出てきたのですが、後でハッとしました。


今のワタシを他の人が見てたら、どう見ても補導された中学生にしか見えないよな、と。
その時になって、あー、のこのこ駐在所についてなんか行くんじゃなかった、と後悔しましたが、時すでに遅し。変なウワサが立たないことを祈りつつ、路線バスに乗って帰りました。
それからしばらく、学校で先生に呼ばれる度に、ビクビクしていたワタシでした。今考えれば、別に悪いことしたわけじゃないので、必要以上にビビることもありませんでしたが、ワタシもまだ若かった。大人を疑うことも知らず、まだまだ純真な田舎っ子だったんです(笑)。
ただ、あの時の路線バスの中の、もやもやとした気持ちは、今でも忘れられません。

暑くて可哀想という理由で駐在所に招き入れた、あの優しいお巡りさんは、駐在所から出ていく中学生を近所の人がどう見るのか、ということについては配慮してくれなかったお巡りさんでもありました。
良いお巡りさんではあったかもしれませんが、ワタシにとっては良い人ではなかったのかもしれない。いやでも、自分のために好意でしてくれたこと、人を、そんなふうに思うワタシは、もしかして人間として何か欠けているのだろうか。

あの時、初夏の日差しの中を走る路線バスに揺られながら、そんなことをぼんやり考えていた中学生のワタシでした。

police_chuuzaisyo.png
(いらすとや)


今のワタシなら、その問いに答えを示すことができます。

良かれと思って好意でしたことを、相手が喜ぶかどうか、相手にとって本当に良いことなのかどうか、それは自分ではわからない。なのになぜ人はそうするのか。それは、助けてあげたい、という気持ちで起こす行動は、相手のためではなく、助けたいという自分の気持ちに対しての、自分のための行動なのだ。

だから受け手は、助けてもらった、手を差し伸べてもらった、気にかけてもらった、そういったことに対して感謝するのは当然だが、実際に助からなかったり、自分のためにならなかったりしたことを、恥じたり悔いたりする必要はないのだよ。

と、当時まだ中学生だったワタシのもやもやを晴らしてあげたい、と思う45年後のワタシです。いやしかしそれだって、当時のワタシが良いと思うかどうかは、わかりませんけどね。


とまあこれが、ワタシが警察官と直接かかわった、最初の出来事でした。この時に感じたもやもやがきれいに晴れた時にはいったい何が見えてくるのか、ワタシはまだ知る由もありませんでした。

続く…かな?


タグ:警察官
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

教室のストーブと弁当とワタシ [思ひ出ぽろぽろ]

Appleな話題満載のPodcast、Apple News Radio ワンボタンの声へのコメントを、なぜかこっそりblogに書いてしまうこの試み(笑)。
オープニングでスミーレさんが言ってた「教室のストーブで弁当を温めた話」。懐かしく聞きました。みんな同じことしてるなーって思いました。


今からかれこれ半世紀前。ワタシが通っていた小学校は、当時珍しく鉄筋コンクリート建てで、ボイラー室からの温風が各教室を回っていたため、各教室にストーブはありませんでした。スキー授業後のウェアや器具を乾かすための部屋にはありましたけど。
その小学校は以前何度か記事に出てきたこともありましたが、時が経つのは早いもので、廃校になってからもう10年も経つんですね。

関連記事:
 2011/11/13 『廃校舎と思い出

で、弁当の話、です。
そもそも小中学校は給食だったので、運動会とかでなければ、あまり弁当を持っていくことはありませんでした。
ところが。ワタシが中学2年生の時。突然それは始まりました。

米飯給食!

文部省が思いついたように始めたこの制度。
米の消費を増やすためか、米文化の継承か。あるいは利権だったのか…子供だったからわかりませ~ん(爆)。
最初は2週間に1日だったか、1か月に1日だったか。今となってはあやふやですが、白米を弁当箱に詰めて登校する日、というものができました。

今ならご飯も給食センターから運ばれてきますが、米飯給食制度が始まったばかりの時は、家からご飯持参の米飯給食だったのです。地域によっては違うのかもしれませんけど。
おかずは通常通りの給食メニュー(当然パンは無い)です。うっかりその当日、ご飯を忘れてしまうと、おかずだけのお昼ご飯という、残念なことになります。

また、本当はご飯だけのはずなのに、なぜか中に味噌漬けが埋まっていたり、ふりかけがかかっていたりして、「バナナはおやつか?問題」と同じく、物議をかもすことが多くありました。

そして、冬の寒い米飯給食の日に、暖かいストーブ、とくれば、暖かいご飯が食べたくなるのが人情というもの。速攻、ストーブのやけど防止柵の脇に弁当がぶら下がるようになりました。
しかし、例によってご飯の中に、なにやら埋め込んでくるヤツがいて。特に野沢菜漬けなんかが入っていた日には、教室中に臭いが充満して、授業もままならない状況におちいったりしていましたね。

20210116.jpg
(画像はお借りしました)



高校生になると、ストーブで温めてた弁当が空になる(誰かに食われた:笑)事件があったとかなかったとか…。そもそも弁当はお昼まで持たず、1限後や2限後の早弁でなくなってしまうヤツらが多く、ストーブで温める風習はありませんでした。ワタシは早弁で半分食べ、残りをお昼に食べる、という、いわゆるハイブリッド方式(言わない)をとっていました。みんなのお昼は、もっぱら購買のパンでしたね。

また、教室のストーブには加湿用のヤカンが載ってました。沸騰するほどチンチンではなかったので、お昼時には弁当箱の蓋でヤカンのお湯を勝手に飲んでました。結構みんな飲んでいたのに、なんで空炊きにならなかったんだろう。今思うと不思議だ…。
あと教室のストーブで思い出すのは、美術室のストーブ。ワタシが部長をしていた美術部では、放課後にストーブで餅を焼いて食べたりしていましたね。顧問の先生はよく何も言わなかったなー。まあ廃部だった美術部を復活させた、という恩があるからね、ワタシには(笑)。

とまあこんな感じで。中学、高校と、教室のストーブは暖房器具ではなく、もっぱら調理器具として活躍していたように思います。「ストーブと弁当」と聞いて、木造校舎の中学校、教室のストーブ脇で温められている、色とりどりの弁当たちを懐かしく思い出しました。



さーて、来週のblog記事は?

「茶の間のコタツと弁当とワタシ」
「学生カバンとアルマイト弁当箱は縦と横との方程式」
「なぜ購買のパンは売り切れるのか」

の、三本です!
来週もまた見てくださいね~!んがふふ

  ↑ ウソです(汗)。


nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

都市伝説を信じて恥ずい目に合う [思ひ出ぽろぽろ]

その昔、S800に女の子を乗せてた時に、ちょっとしたアクシデントがあり、大変恥ずかしい思いをした、という記事を先日書きました。

関連記事:
 2020/12/13 『そしてトラウマは克服された

実はその記事を書いていて、芋づる式に思い出したことがあります。今度はカミサンと付き合い始めた頃の話です。おそらく、件の記事の2~3年後くらいだったと思います。当時乗っていた車は、HondaのクイントインテグラVX、4ドアセダンでした。

関連記事:
 2019/02/20 『愛車遍歴6

注意:
結婚前なので、まだカミサンではないのですが、同一人物なんで(笑)、便宜上、カミサン表記で押し通します。


結婚前、カミサンにはよく、何か美味しいものを食べに行こう、と言っては誘い出し、食い倒れの旅(笑)に出かけていました。その日もいつものように、何かを食べに、何処かへ行ってきたのだと思います。詳細は忘れましたが。
遠出をしたからか、ゆっくり食べすぎたのか、かなり遅い時間になってしまい、帰りを急いでいました。
たぶん夜9時過ぎ、もしかして10時近かったんじゃないかな。すでに門限破り確定ー!って感じです。


国道を走っていて、何か違和感を感じました。
ん…エンジンの吹けが悪い?アクセルを踏んでも、いつものように回転数が上がらない。トルクが全くない感じです。

そのうちに、車全体がガクガクしだしました。ノッキングを大げさにした感じ。最初はパンクしたのか?と思ったのですが、気付くと今度は、排気温度の警告灯が点灯…。


ちょうどトンネルに入る直前だったので、トンネル手前の空き地(電気設備などがある)に、車を滑り込ませました。やばいなー、カミサンの家まで、ここからまだ50kmくらいはあるよ。このまま、だましだまし走っていける距離じゃないな。

例によって携帯電話もない時代。ただ、車を停めた空き地には、公衆電話ボックスがありました。というか、電話ボックスがあったので、この空き地に停めたんですが。半分寝ぼけまなこのカミサンに訳を説明し、公衆電話からJAFに連絡を入れました。

genba.jpg

カミサンにも、家で心配してると思うから、電話したら?って言ったら、もうどうせみんな寝てる時間だからイイや、って言ってたような(汗)。やばーい、怒られるの、確実ぅー。

夜だったせいもあるのか、それからJAFが到着するまで、1時間程度かかったような気がします。JAFも、よく見るような黄色の作業車ではなく、普通の乗用車だったと記憶しています。おそらくJAFと提携している、個人の自動車修理工場の人だったんでしょう。
ワタシとそれほど変わらないような歳恰好のお兄さん。ボンネットを開けてみて、さっと見渡して開口一番。

「これ、何か付けてます?」

エンジンヘッドのスパークプラグを指差します。おお、そうだ。言われてようやく思い出しました。何か月か前、雑誌で見たのか何かして、プラグの火花を増幅して、パワーアップと燃費を改善する、とかいうパーツを付けました。
忘れもしない「ガンスパーク」(笑)!
今の人は知らないでしょうねー。

gunspark.jpg

1980年代後半にバイクから流行り始め、当時一世を風靡した、エンジン点火強化系の後付けパーツです。スパークプラグの頭にかぶせるように取り付け、その上からプラグキャップを接続します。スパークプラグへ供給する電気を一時的にコンデンサーにため込み、一気に放電することで、出力アップと燃費向上になる、という触れ込みでした。ま、都市伝説、と言うか、怪しい三流パーツですよね。
わかっちゃいるけど、試してみたい年頃なんです。若気の至り、って言うんですかね。

「これ取ってみてもらえます?」

お兄さんに言われ、ガンスパークを取り外してみる。



もしかして、と思いつつ、エンジン始動!
ん?何か良さそう?エンジンが息をつく感じがありません。
しばらくアイドリングをしてみても、警告灯が点灯することもない。

「念のため、ゆっくり走りながら、様子を見てください」

(眠いっつーのに、こんなくだらないことで呼ぶな)
(遅くまで女とチャラチャラ遊びやがって、ざまあ)

お兄さんは、そんな視線を投げかけて、帰って行きました。
(個人の感想です:笑)

待ち時間、1時間。
修理時間、1分。

いや、申し訳ない。一番最初に気づいて疑うべきでしたね。
付けてからしばらくは、特に問題なかったんで、付けていたことさえ忘れてました。逆を言えば、何の効果もなかった、ということですね(汗)。


何だかんだで、帰りは午前様。
一応、お家の方に、遅くなった理由と、お詫びを一言。と思っていましたが、さすがにカミサン家の電気は消えており…。でも、玄関の鍵は開いてたようで。

後日、怒られなかったか、聞いてみたところ。

「そうでもなかった」

ホントか?
いや、そんな訳ないだろう。
ワタシに気を使ってそう言ったのかもね。

S800にまつわる恥ずかしい話に合わせて思い出した、JAFのお兄さんとカミサンにダブルで恥ずかしかった、クイントインテグラでの思い出でした。


nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:自動車

そしてトラウマは克服された [思ひ出ぽろぽろ]

久しぶりに車検を取って公道復帰したHonda S800。
先日、前からやりたいと思っていた、灯火類のLED化を行いました。

関連記事:
 2020/11/15 『公道復帰
 2020/12/11 『Hondaの作業服が白いから

確かに、旧車にLEDの光は似合わない。
何だかんだ言って、実はワタシもそう思ってはいます。
それなのに、なんでそれほどまでにLED化したかったのか。

突然フラッシュバックのように、鮮やかに思い出しました。
あの日、あの時、あの場所。

本当に忘れていたのか、ただ単に忘れたかっただけなのか。
今回、実際にLED化をしたことで、気持ちがすっきりしたのか何なのか、ふとある出来事を思い出しました。多分それが、トラウマと言うか、強迫観念になっていたような気がします。

そうだったんだ。
あー、だからかー。

自分で自分の行動が納得できました。
腑に落ちた、ってこのことですね。



その出来事とは…。
今をさかのぼること30年近く前のこと。
カミサンと出会う、少し前でした。

当時ワタシは技術職で、制御系エンジニアをしておりました。
毎日忙しい日々を送りながらも、あの頃の職場は、なにかこう、おおらかと言うか、ゆるいと言うか。そして和気あいあいとしてましたね。

全員がそろって夜11時過ぎまで残業していると、突然「ひゃ~」とか「ひょ~」とか叫び出す先輩がいて。
そのうち

「やめたっ、これから呑みに行く!」

とか言い始め。
みんな深夜テンションなもんで「オレも」「よし!オレも」って話になり。
そのまま全員で呑み屋に行き、その後はカラオケ。
深夜2時過ぎまで騒いでようやく解散。
時にはその後、バーで4時までビリヤード、とか。
それでも朝にはみんな普通に出社。
今思うと、毎日がそんな感じで。
いつも全力疾走していた、そんな日々でしたね。


ある日。
ワタシと特に仲良くしていた人たちの中で、峠に星を観に行こう、って話で盛り上がりました。その日はまだそんなに遅い時間じゃなくて、事務の女の子も何人かいました。
その中の一人に、ワタシがまるで歳の離れた妹のような感じで接してた子(10歳くらい歳下:笑)もいて。

「あたしオープンカー乗りたいっ」

とか言い出しました。
オープンカーから星空や夜景を見たい、とかぬかすんです。

「髪の毛、ボサボサになるよ?」

「いいもん!」

それまで、夜走ったことや、助手席に誰かを乗せたことはありませんでしたが、まあいいよ、ってんで、いったん自宅に帰り、エスハチに乗り換えて、妹(仮)を迎えに行きました。
ワタシはその頃ちょうど、長年探し続けてたエスを再度手に入れたばかりで、嬉しくて、みんなに見せびらかしたかったんでしょう。

関連記事:
 2019/02/24 『愛車遍歴7

他の人たちは、先に峠に向かって出発しています。
ワタシたちも遅れて出発しました。


峠に向かう途中。
季節は、春先だったか秋口だったか。
助手席の妹(仮)に、寒くない?なんて言いながら、そっとヒーターを入れました。
気を利かせたつもりでした。

峠に向かう山道を登り始めます。
街の明かりが遠くなり、あたりがどんどん暗くなってきます。
多分、暗いと妹(仮)が怖がるかな?とでも思ったのでしょう。
普段なら、そんなことはしないのですが。何の気なしに、ハイビームに切り替えました。

「パチン」

…と言ったかどうか。
その瞬間、ヘッドライトが…、消えました。
峠に響く元気な排気音はそのままで、あたりは深い闇に包まれました。

そうです。
ヒーターのブロアファン全開と、ヘッドライトのハイビーム。
その大電流に耐えきれず、一瞬でヒューズがぶち切れたのでした。

突然の暗闇の中で路肩にも寄せられず、そのまま道の真ん中で急ブレーキ。
予備のヒューズなんか持ち合わせてないわ。
うなだれるワタシ。そして助手席では、大爆笑の妹(仮)。
真っ暗な山の中、行くも戻るも、どうにもならず。
幸いウインカーだけは生きていたので、その明りを頼りに方向転換し、途中まで登った峠を、何とか無事に下りきったのでした。

峠を下れば、街中は明るいので、まあまあ一安心。
妹(仮)を乗せたまま、よたよたと自宅まで帰り、いつもの車(当時の車はクイントインテグラ)に乗り換え、改めて峠に向かいました。
峠では他のみんなが待ちくたびれていて。

「二人でどこかにシケこんだのかと思って心配したぞー」

そんなふうに、みんなにイジられて、散々な夜でした。

確かにそれはそう。峠までを2往復してますからね。
みんなは峠の上で、もう2時間半くらい待ってるわけですよ。
当時はまだ携帯電話もなかった時代です。
思えば、真っ暗闇の山の中で、二人っきりの男と女、でした。
相手によっては、何かがあったり、なかったり?
いや、爆笑で済ますような妹(仮)で良かったのかもしれません。

もしも一人だったら、こんなに凹まなかったでしょう。
一人の時で、いやーヒューズが切れてさ、ライトが消えちゃったんだよー、わはははーってな話だったら、ただの失敗話で済んだのに。
隣に女の子を乗せてた、という事実。それを客観的にみるとね、いかに妹(仮)とは言え、あーもうね、ダメよ、それはもうダメ。カッコワリー。ダセー。イケてねー。みっともねー。
ホントにもう、こんなに情けないことはありませんです、ハイ。
調子こいて乗せるんじゃなかった。


そんなことがあってからずっと、エスハチではハイビームを使いませんでした。思えば、今までずっと。
そもそも、それ以来、夜に走ることもありませんでしたし。
トンネル内でライトを点灯する時でも、まずスイッチがロービーム側になっているのを確認してから点灯するのが、今ではもう習慣になってて、ほとんど無意識でやっています。
そんな習慣がついた理由を、原因となったこの出来事を、今の今まで、すっかり忘れていました。
今回、エスハチのLED化により、30年間の封印がようやく解けた感じです。

今度はもう、ハイビームとヒーターと、両方使っても大丈夫になったよ。
妹(仮)にはここ何年も会っていませんが、今度顔を見たら教えてあげよう。
憶えてないかもしれないけど。

そして、何の因果か。
妹(仮)は、カミサンの中学生時代の部活の後輩だそうで。

渡る世間は狭すぎる。
というお話でした。

いやLED化!(爆)。

IMG_6576.jpeg

IMG_6580.png


nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:自動車

ものづくりがしたい [思ひ出ぽろぽろ]

就活で広告会社を希望していた学生が、メーカーで働く父親の話を聞くうち、ものづくりに目覚めていったという話。

ものづくりがしたい

ものづくりの企業で働くワタシとしては涙ちょちょぎれるお話ではあります。
とはいえ、今は事務職。
昔のように設計開発をバリバリやってた頃とは違います。
はっきり言って今の業務で胸を張って熱く語るところはありませんね。
この話のように娘に熱く語れる父親が羨ましいです。

PAK85_kikaihandle20141028182041_TP_V.jpg
写真素材ぱくたそ(www.pakutaso.com)


ワタシがものづくりに直接携わった最後と言えば。
今からもう20年も前の話。
障害者のためのあるものを作る装置。
当時の社長が自己満足というか道楽というかで始めた開発。
ウチの工場がメインで作っているものとは大きく異なる、まったく畑違いの製品でした。

営業や企画からは切り離されてましたから、いわば社長直属です。
社会貢献活動のようなものでもあり、ボランティアというか採算度外視で、コストよりも機能や使いやすさを重視して、社長一人を了承させれば好き勝手に進めることができた、技術者としてはとても恵まれた環境でした。

おかげで点字についていろいろと学んだり。
その当時は点字を「目で」読めるくらいにはなってましたね。
今でも簡単な単語や文章なら読めたり読めなかったり。
残念ながら触って読めるほどにはなれませんでした。

PAKSS00060_TP_V.jpg
写真素材ぱくたそ(www.pakutaso.com)


その後社長も亡くなり、その装置も数台製造した後は、後継機種を開発することはありませんでした。
ワタシも一線を退いちゃったし。
それでも毎年この時期になると、市の福祉課をとおして障害者の方に、あるものをお配りしています。
ワタシが開発した装置で作ったあるもの。
それを書いちゃうと簡単に特定されるので書きませんが。

たまに点字でお礼の手紙をいただいたりもします。
ありがたく、なつかしく、くすぐったい。
その時だけは、自分がまだものづくりに携わっている技術者な気がします。


nice!(2)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

Google元暗し [思ひ出ぽろぽろ]

もう2年も前で、今更な話なんですが。
そうそうできない体験だったので思い出として記事にしておきます。



仕事の関係でGoogleJapan本社に行きました。
ご存知、六本木ヒルズの森タワーです。

IMG_0136.jpg

Googleに行くなんて、どんな仕事してるの?と思われそうですが、まぁ大した用事ではありませんでした。
当時結構アップアップ状態で仕事してたもんだから、フツーに仕事で行くフツーの会社のつもりで、フツーの格好(クタビレタスーツにボロコート)で行ったんです。
2月でしたからこちらは大雪。
さすがに長靴は履いて行きませんでしたけど、あまり服装とかに気持ちが行かなかったこともまた事実。

IMG_0131.jpg
ヒルズを訪れた田舎者を迎えてくれたのは、なぜか巨大なクモのオブジェ…。
なぜにクモ?

それでもなんでも、東京のど真ん中。
腐っても(腐ってないが)六本木ヒルズです。
オサレなトレンディドラマの舞台になるような場所。
新潟と東京の気温差だけではない、別の理由で大汗をかきながら、厳重な受付の前に立ったのでした。



超高速なエレベーターに乗り、27階で降りるとお相手が迎えに来てくれました。
よかったです。これお迎えがなければ完全に迷子です。
何て言うか、フロアがめっちゃ無機質なんです。
飾り気がない、と言うか、シンプルと言うか。通路に何にもない。
掲示物なんてまったくないし10歩あるいた景色と100歩あるいた景色がまったく同じw。
廊下の曲がり角で、振り返った景色と曲がった先の景色が、これまた同じw。

「今火事になったら絶対逃げ遅れるな…」

マジでそう思いました。
トイレに行く時には、本気で歩数を数えましたもん。

GoogleJapan本社こそStreetViewが必要でしょ!
灯台元暗し、ってこのことですね。



そうそう。
あるフロアの一角に、StreetView用の撮影カメラや、GoogleMapを全方位で体感できるマルチモニターみたいなのが展示されてました。
Googleって、もっと人がワイワイしてて活気があるのかと思ってましたが、廊下の人通りは少なく、ひっそりとしてました。
階やフロアにもよるんでしょうケドね…。

IMG_0150.jpg

以上。
もう二度と入ることのない(であろう)GoogleJapan本社の潜入レポでした(笑)。

IMG_0151.jpg


nice!(2)  コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感
前の10件 | - 思ひ出ぽろぽろ ブログトップ
人気ブログランキングへ