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どん底の中で幸せを見つけられるか [ちょっといい話]

先日ある冊子を読んでいて興味あるコラムを見つけました。
有名な児童文学「フランダースの犬」についての内容でした。
日本ではアニメがヒットしたため、物語は皆さんご存知のとおりですが、簡単に掻い摘んでみると…。

主人公は将来画家を目指す少年ネロ。祖父と老犬のパトラッシュと一緒にミルク運びで生計を立てながら暮らしています。
ネロは正直者で絵画の才能にも長けていました。
しかし仕事は奪われ、祖父は亡くなり、住んでいた小屋も追い出され、コンクールに出した渾身の作も僅差で落選。次々に不幸がネロに襲いかかっていきます。
すべてを失ったネロは、クリスマスの前夜、雪の中を大聖堂へ向かい、真っ暗な大聖堂の中に入り込みます。
その大聖堂には、貧しかったため閲覧料を払えず観ることのできなかったルーベンスの祭壇画が掲げられています。
真っ暗な大聖堂でしたが、その時、雲間から射し込んだ月明かりが、憧れの祭壇画を一瞬照らし出すのです。
ネロは喜び、神に感謝します。
その頃、ネロの才能を認めた著名な画家たちが、ネロを引き取って養育しようと思い立ちますが、とき既に遅く。
クリスマスの朝、祭壇画の前で愛犬パトラッシュと一緒に息を引き取り冷たくなったネロが発見されるのでした。


改めて物語を振り返ってみるとひどい話ですね。
ワタシはあまりこの物語を好きではありませんでした。
これと「ほたるの墓」は、あまりに救いがないこともあって、はっきり言ってキライな部類に入っています。
まぁ「ほたるの墓」はさて置き…。

この物語が何を伝えたかったか?という問いについては諸説あります。
「貧困や差別の悲劇」を訴えるメッセージ。
また、特に日本でアニメがヒットしたことから、日本人が持っている「滅びの美学」とか。
そんなものを皆さん感じられるようです。

しかし前述のコラムでは、そうじゃないんだと力説しています。
以下に少し引用します。



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(前略)

しかし、再度丁寧に読み返してみると、ネロは祭壇画の絵を見ながら、神様の慈悲に感謝しています。
冷たくなった死に顔には喜びの笑みをたたえていたのです。
このエンディングに大きな意味があるのでしょう。
キリスト教としての象徴的な意味があるのでしょうが、その解釈は宗教家に任せたいと思います。
ここでは、人生における喜びや幸せについて考えてみましょう。

職や、お金、住処、食べ物、名誉があれば喜びや幸せがあると、多くの人は信じています。
しかし、安定した職をもっている人でも、富をもっている人も、食べるのに困らない人の中にも不幸な人はたくさんいます。
幸せは「お金持ち」と、「貧乏人」を差別して与えられるものではないように思うのです。
『フランダースの犬』では、究極の状況の中でも喜びや幸せを感じることができると語っています。

(中略)

結局、どんな状況に置かれていようと、日々の生活の中には、必ず喜びや幸せがあります。
それに気づくことができるかが、重要です。
ネロを不幸せと感じてしまったことは俗物的な幸福感に侵されているのかもしれませんね。

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なるほどそうだったのか、と思いました。
「フランダースの犬」はこのラストシーンにより、幸福な物語としても成り立ってしまいます。
不幸な人生だったのか、幸福な人生だったのか。
それは、ネロ自身が決めることなんですね。
ラストのネロの表情がすべてを物語っていると思います。

nero-pastel-2.jpg


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