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悲しみに沈んだ笑顔 [新潟県中越地震・災害]

やはり書かずにはいられません。
もうと言うかようやくと言うか、あの日から1年がたちました。

あの日、この時間。
投光器の光に浮かび上がる避難所。
廊下や玄関にまで敷き詰めた毛布と、そこに横たわる人の群れ。
誰もが眠れずにいるのに、ひっそりとして話し声は何もない。
押し殺した息づかいと淀んだ空気があるだけ。

普段の生活をしていると、もう何年もたったような気がしていましたが、今日こうやって目を閉じていると、突然フラッシュバックのように胸を突かれ、酒でも飲まなきゃ眠れません。

余震の続く中、仕事で打ち合わせに行った先。
「ウチは、ばあちゃんが埋まっているけど、掘り出す方法がないから、仕事でもしてるしかありません」
「避難所にいてもすることがないので、とりあえず出社しました」
そう言った人の、悲しみに沈んだ笑顔が心から離れません。

一緒に泣いてくれますか?
でも、泣いていても何も始まらないってことは、誰もが知っている。
笑うしかない。
苦しくても、悲しくても、歯を食いしばってでも…。

笑おう。
そして、前を向いて、一歩ずつ進もう。


ありがとう [新潟県中越地震・災害]

昨日は怒りにまかせた記事を書いてしまい、ちょっと反省。
いつも感謝の気持ちを忘れずにいようと書いたのは、今年の元旦の記事なのに。

ということで、朝からお気に入りのFlashを見て涙してます。

あれからもうじき1年。

キミは安全神話を崩壊させたんじゃない。
安全神話を守り通したんだよ。
こっちこそ、ありがとうね。

お気に入りの泣けるFlash。
よろしかったらこちらでご覧ください。
上越新幹線とき325号


保存するのはいいけれど [新潟県中越地震・災害]

新潟県中越地震で起きた大規模な崩落で、旧小出町の母子3人が生き埋めになり、奇跡的にも3歳の幼児が生還したニュースは、今でも生々しく思い出される方もいらっしゃると思います。
実は今、その現場を保存しようという話が出ています。

毎日新聞
『新潟中越地震:優太ちゃん救出現場 メモリアルとして保存』
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/photojournal/news/20050519k0000m040046000c.html

何か心に引っかかります。
慰霊碑は納得できるのですけど、現場をそのまま保存するって…。
あの県道は利用する人が多く、ずっと不便を強いられている方もいます。
さすがにあのまま道を通したところで、通りたくないと言う人も多いかもしれませんが、まずは道路を復旧するのが先ではないでしょうか。
まともに復旧するとお金がかかるから、ってのが理由じゃないでしょうね、なんてツッコミたくなります。

それより何より…。
普段から通行量が多かったあの道です。

ほかに埋まってる人は、本当にいないのでしょうか。


天気がいいと思い出すあの日 [新潟県中越地震・災害]

昨日は下の子の2歳の誕生日。
天気もよかったので、午前中は運動公園まで、散歩がてら(自分のリハビリもかねて:笑)歩いて行ってきました。
ジュースとお茶と、何よりお財布を忘れずに。
出かける時に、そういや前に財布を忘れて失敗したことがあったっけ…と頭に浮かびましたが、その時はそれより深くは考えませんでした。
ぽかぽかと暖かい日差しの中、下の子のペースにあわせてぶらぶら歩いていると、上の子(5歳)がポツリと言いました。

「前さぁ、虫さんがいっぱいいっぱい、うじゃうじゃっていたことがあったよね」

それでようやく気づきました、あの日のこと。
あの日の昼間もこんなぽかぽか陽気だったこと。
這い回る虫をぴょんぴょん跳ねながら避けて歩いたこと。
http://blog.so-net.ne.jp/gen11/2004-12-01

「そうだったねぇ。覚えてる?あの日の夜に地震があったんだよ」
「…うん」

(しばらく歩く)

「ねぇ、地震の前って虫さんや鳥さんがいっぱい逃げるってホントなの?」
「そうだよ」
「そっかぁホントなんだぁ…テレビだけの話かと思ってた。ホントなのかぁ」
「何でそんなこと知ってるの?」
「だってさ、ほらぁ、『未来少年コナン』でさぁ、地面が割れる前に虫さんやチョウチョさんがいっぱい出てくるでしょ」
「お〜そうだねぇ」
「あたしねぇテレビだけのお話だと思ってた。そっかぁ…、ホントのことなのかぁ…」
いつもぼーっとテレビを見ているようで、彼女は彼女なりにいろいろと吸収してるんだなぁと、ちょっと驚きました。

その後も「チョウチョ、多いかなぁ…」と心配そうでしたが、その内にそんなことも忘れて、いつもの調子に戻る娘。
そんな彼女を見ながら、まだまだあの時に受けた心の傷は癒えていないんだなぁと、胸が押しつぶされる思いでした。

そんな父娘の想いを知らず、当の主人公である弟くんは、往復2〜3キロもある道のりを、いやがることもなく歩き通し、元気いっぱいな誕生日を謳歌していました。
そういやあの時も、ずっと寝てた彼。将来大物になるよ。
誕生日おめでとう。


不安と感謝 [新潟県中越地震・災害]

久しぶりに芝居に行ってきます。

もう半年も前になるあの地震以来、何だか遠出することが怖くなったこともあり、しばらくご無沙汰していました。
いつも一緒に行っていた友人は、ようやく家が直ったような状況らしいので、今回は特に声をかけないつもり。
(ごめんね、黙って出かけちゃって)

あれから、カミサンと出かける時には、リスクというものを考えます。
カミサンと二人で出かけて、何かあった時には、残された子供たちはどうなるんだろう、とか。
出かけている最中に、子供たちに何かあったら、後悔しないだろうか、とか。

最近は、そんな気持ちを引きずりながらも、少しずつ少しずつ、出かけるようにはなってきました。
いつまでもそんなこと考えてたら、何にもできないし。
そうは言っても、やっぱり不安は不安。

会社から帰ってきて、「お帰りなさぁい」と子供の笑顔を見ると、「あぁ今日も無事だった」と、思わず肩から力が抜けます。
何にもない、普通の一日に、誰にともなく感謝したい、そんな気持ちです。
今日も無事に子供たちのもとへ帰って来れますように。


新潟県中越地震体験記12 [新潟県中越地震・災害]

家に帰って、さて朝ご飯は?
まだ電気が来てない。
水道、ガスは使えても、電気がなければご飯も炊けないよぉ。
ということで買出しに。
会社近くのコンビニは電気が来てるだろう。

朝早くのコンビニは、まだお客もまばら。
おにぎりとパン、パックのご飯などを買いあさってきました。
食糧確保の次は燃料だぁ。
ということで、ガソリンスタンドへ。
まだ半分以上残っている車のタンクを満タンにして、さらに携行用燃料缶に20リッターほど入れてもらいました。
※後日聞いたら、この1時間ほど後では、どこも食料は売り切れ、スタンドは給油制限になっていたとのこと。ほんとラッキーでした。

サンドイッチと即席味噌汁の朝ご飯の後は家の片付け。
そして、サーバメンテで、会社と家を行ったり来たり。
おにぎりとカップめんのお昼を食べ、しばらく寝不足の頭でボーっとしていたら、夕方になる前に、この地区もようやく電気が復旧しました。
カミサンとおばぁは今のうちにと、ご飯を炊きにかかります。
テレビを点けると、地震のニュースばかり。
ひどい惨状に唖然としました。
それに比べれば、この地区はほとんど無傷のようなものです。
震源に近いほうにも知り合いはいるが連絡はつかず。
県外にはかけられるようなので、親戚に電話をかけ無事を伝えました。

揺れが怖くて、お風呂にはとても入る気にはなりません。
炊いたご飯を全部おにぎりにして、半分を車に積み残りで晩ご飯にしました。
いつでも逃げ出せるように、普段着のまま、早々にコタツ寝です。
こうして、長かった24時間がようやく過ぎて行ったのでした。
以上、2004年10月23日(土)~2004年10月24日(日)の『ホンの一部』でした。

忘れられない日。
いや、私のことだから、そのうちにすぐ忘れてしまうだろうけど。
人生いつ何が起きるかわからないことを思い知らされた日。

最後に、亡くなられた方のご冥福をお祈りし、被災されたすべての方にお見舞いを申し上げます。
また、被災地に対し、暖かいご支援とご協力をいただいたすべての皆様に、心から感謝いたします。
この感謝の気持ちを、いつかどこかで誰かにお返ししたい。
それまでは、この日を忘れてはいけないと思っています。

※北堀之内の上越線崩落現場(協力会社へ行く途中で撮影)


新潟県中越地震体験記11 [新潟県中越地震・災害]

10月24日(日)朝7時過ぎ。
消防団が解散になったので、家に帰りました。

ずっと下流の地区ではもう電気が来ているらしいのですが、このあたりはまだまだです。
家屋にはたいした被害はありませんが、台所の棚の扉が開き、中のコップや茶碗が半分くらい落ちて、みんな砕け散っていました。
後は、二階の廊下の本棚。
この本棚、20万くらいした大きなもので、ほとんどフルに近く本が入っていたにもかかわらず、位置が違っていました。
昨日の揺れで「本棚が歩いた」ってことです。
これはもうちょっとやそっとじゃ動かせませんので、このままであきらめます。

他は大丈夫そうなので、家は家族にまかせ、今度は会社のサーバです。
会社に行ってみると、机という机の引出しがすべて出ていて、事務所荒らしにでもあったような状態。
ラックに載せただけのサーバは、落ちかかっていて、きわどいところでした。
でも電気は復旧していたので、位置を直して早まる心を押えて起動!
見慣れたブート画面が流れていきます。
何とか無事に起動して、ホッと一安心しました。

まだ電話は使えません。
上司に簡単なメールを送って、会社を後にしました。


新潟県中越地震体験記10 [新潟県中越地震・災害]

日が短くなったとはいえ、6時頃になるともう明るくなってきます。
眠れなかった人たちが、外の明るさにつられて出てきました。

「これからどうするの?」「家に帰りたいんだけど」
いやぁ、全然考えていませんでした。
消防団が避難を呼びかけたのですから、住民の皆さんは消防団が何か指示を出すだろうと思っているようです。まぁ当然といえば当然ですね。

でも今回は、行政や消防本部の勧告や指示ではないので、あくまで自主避難と言う形です。
解散して下さいとか、家に帰ってもいいですとか、消防団が指示できる立場ではありません。
とはいえ、集めた責任上ほおっておくことも出来ないので、しばらく避難所は開けておき、また何かあったら避難するように説明して、取りあえず帰ってもいいということにしました。


新潟県中越地震体験記9 [新潟県中越地震・災害]

韓国に出張している同僚から携帯に電話が来ました。
インターネットのニュースで地震を知り、心配で連絡して来たのでした。
固定電話はどこも連絡がつかず(当たり前です誰もいないのですから)、携帯だと20回に1回くらいは何とかつながると言っていました。
取りあえず現状を説明すると、被害がないことに少しは安心した様子で電話を切りました。
携帯が使えたのはそれが最後でした。

深夜までは地区の道路で不審者の警戒、明け方にかけては消防で積載車内で待機です。
まんじりとも出来ない夜。
話すこともつきて、みんな押し黙っています。
眠いのだけれど眠れない。小さな揺れはまだまだ続いています。
その度にみんなが息を飲み体を固くするのがわかります。

そうやって過ごしたとても長い夜も、ようやく明けてきました。
朝方になって本部員が伝令にやってきました。朝7時で一般消防団員は解散してよいとのこと。
下流の地区ではもう電気が復旧して来たようです。

停電かぁ…。会社のサーバはみんな止まってるなぁ。
どうせ今日は日曜日ですから、基幹系のサーバは止まっててもかまいませんが、ウチの会社のインターネット系のサーバはこちらの工場にあります。
これがダウンしていると、WWWは良いとしてもメールが使えないのは支障がでます。
メールサーバだけでも早く復旧しないと。

まだまだ奮闘は続きそうです。


新潟県中越地震体験記8 [新潟県中越地震・災害]

(あるかないかわからない)災害対策本部に、積載車で報告に出かけた団員たちが、驚きの情報を持って帰ってきました。

なんと、この積載車の無線機は、壊れていたのだそうです(汗)。
道理でうんともすんとも言わないはず。
取りあえず本部員の携帯用無線機を借りて、他の部を経由して本部と連絡を取ることになりました。
無線機は、10月10日の秋期消防演習の時点では正常だったので、その後いつ壊れたのか、もしかして地震のショックで壊れたのかもしれません。
そんなことで壊れる無線機もどうかと思うのですが、逆に言うとそれだけ地震の凄まじさを表しているということかもしれません。
一時は孤立した消防団かと思われたのですが、これで本部とのつながりが出来て、ようやく組織的な行動が出来るようになりました。
未だに揺れが収まる気配はありません。
本部からの指示は、朝まで交代で警戒にあたれとのこと。
班編成を行い、担当の時間までは各自睡眠を取ることになりました。

住民の皆さんは、自宅から毛布や布団などを持ち込んで雑魚寝。
玄関先の廊下までいっぱいいっぱい。足の踏み場もないような状態です。

震度3以上の大きな地震は、2時間で10回を数えました。
(最初の15分以後)18:34 震度6弱、18:36 震度3、18:57 震度3、19:36 震度4、19:45 震度4。
この他に小さな揺れは数えきれないくらい。
もうこうなると、揺れているのかいないのか、よくわからなくなってきました。

飛行機やヘリコプターの音が時々聞こえてきます。
きらめくような星空の中、星をぬうようにして飛行機の灯りが明滅しています。
最初の地震から、ようやく3時間になろうとしていました。
明日の朝まではまだ8時間もあります。
長く暗い夜は、まだ始まったばかりでした。


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